「震災からモダン都市・新宿へ」 <関東大震災から100年>
本年は大正12 年(1923)9 月1 日に起こった関東大震災から100 年目にあたります。
この地震のマグニチュードは7・9、死者、行方不明者は10 万5 千人余り、日本の災害史上最大の被害をもたらしました。死者の9 割は東京東部で起きた火災によるものでした。新宿区地域は大きな火災は起こらず、死者、行方不明者は430 人余りとされています。この地震の後、被害が大きかった東京東部から東京西部に移住する人が多く、同時に、この時期私鉄各線も新宿駅から西に路線を広げたこともあり、新宿駅周辺は大きく発展しました。
第一部「大正12年9月1日関東大震災発生」
-大震災の被害を描いた地図、絵画、写真などの展示-
大震災の後、すぐに震災に関連した多くの写真、地図、絵画が発行されました。地図はいろいろな版が出版され、焼失地域には若干の違いがみられます。いずれにしても東京東部の被害が大きかったことがわかります。なお現在の新宿区地域は、関東大震災が起こった時は東京市の時代で、牛込区、四谷区、そして豊多摩郡の一部でした。
【主な展示資料】
・大正地震東京大火明細図 大正12年(1923)9月15日
・東京大震火災地図 四谷新宿著名商店聨合広告 大正12年(1923)
・東京市付近警戒救護食料品配給所位置要図 大正12年(1923)9月5日
・大正震火災木版画集 救護所 桐谷 洗鱗
・東京日日新聞(甘粕事件記事) 大正12年(1923)10月9日
資料数約20点
第二部「地震後の新宿区地域の救護活動、新宿駅東口の発展、デパートの建設」
-大正15年(1926)新宿三丁目追分角に建設されたほてい屋デパートの資料、その他三越、伊勢丹などの資料を展示-
震災の後、東京市・各区はすぐに傷病者救護、救済米配給、仮設住宅建設から屍体収容、埋火葬許可と多岐にわたる活動を行いました。また、民間の商店、団体も独自の救護活動を行っています。そのなかで三越は自社の配給所を使用して、マーケットを整備し、新宿駅東口進出の足がかりを作ります。震災から2年後、大正14年(1925)にほてい屋デパートが新宿三丁目に進出、つづいて伊勢丹も進出します。同年新宿駅東口には新駅舎が完成、新宿駅東口周辺は発展していきます。
【おもな展示資料】
・ほてい屋七福神図屏風
・関東大震災直後の新設の三越新宿マーケット 堀潔画
・関東大震災時警戒線通行票
・震災地人口調査紀念銀杯
・牛込在郷軍人会大震記念ポスター
資料数約50点
第三部「帝都の復興」
-震災から復興した東京の地図、資料などを展示-
震災から8年後の昭和5年(1930)復興事業は一応の完成をみます。同年3月23日には東京市内各所で帝都復興祭が行われました。復興事業によって東京は近代国家の首都としてふさわしい都市になりました。東京の主要道路はこの時に作られ、隅田川には9つの橋が掛けられました。また、復興事業の一環として鉄筋コンクリート造の復興小学校が建てられました。昭和7年(1932)東京市は近隣の郡町村を編入し、市域を拡大します。この時新たに淀橋区が作られ、新宿区の前身である3区(牛込、四谷、淀橋)ができました。
【おもな展示資料】
・帝都復興記念帖 昭和5年(1930)3月発行
・東京市役所復興局原図縮図 四谷区全図 昭和5年(1930)5月
・復興帝都御巡幸御道筋並御立寄箇所図 昭和5年(1930)
・市域拡張記念東京市分区図
資料数15点
特別企画「ポスターを描いた日本画家・町田隆要」
-新宿区百人町に在住していた日本画家・町田隆要のポスター、下絵などを展示(館蔵品・借用資料)-
町田隆要は、芝愛宕町(現東京都港区愛宕)生まれ。東京美術学校(現東京藝術大学)を中途退学し、商業美術の道に進み、明治初期に日本に入ってきた石版印刷を下絵から描画まで学びました。最初、石版の技法を使って明治元勲の肖像画や歴史画を描きましたが、後には当時流行したデパートや飲料水の宣伝のための美人画のポスターを多数描きました。大正初めころから百人町(現新宿区百人町)に住み、85歳で亡くなるまでそこで暮らしました。名前は知らなくても隆要のポスターを見たことがある人は多いと思います。
【おもな展示資料】
町田隆要ポスター「蜂印香竄葡萄酒」武蔵野美術大学美術館・図書館所蔵
町田隆要ポスター「Osaka Shosen Kaisha (Tachiyama)」武蔵野美術大学美術館・図書館所蔵
町田隆要ポスター「ダンロップタイヤ」武蔵野美術大学美術館・図書館所蔵
データ提供町田家
資料数18点